都市のあこがれ

先日発売された「都市のあこがれ―東京大学槇文彦研究室のその後とこれから」(「槇研の本」編集委員会 編、鹿島出版会)を読む。新堀学さんの原稿では、REの下田の南豆製氷所でのインスタレーションも取り上げていただいた。
ヤマシロが大学受験勉強をしているころ、東大で建築にはいると誰のものとで勉強できるのかと思い、調べていると槇文彦という建築家であることが分かった。たしか当時幕張メッセの工事中で、週刊誌でその紹介記事を読んだ記憶がある。実際にはヤマシロが東大に入学した1989年には槇研究室はクローズされていて、直接研究室に交わることはなかった。しかし、その後槇研究室の後を引き受ける大野秀敏のもとで建築を学び、縁あって槇総合計画事務所に勤務し、現在にいたるまで仕事や研究、遊びの面においても槇研究室OBの先輩方に囲まれて過ごしてきたと思う。今回改めて本を開き、そのメンバーの一人一人の名前を見るにつけ、その意を強くする。


今回、文章を読んでいて、印象に残ったのは、事務所の先輩でもある水井敬さんの文章。

フローニンゲンでの祝祭を体験したあとにはじめて、そもそもこうした祝祭的な建造物が漂うためには水面という場所がなくてはならないということに気がついた。非日常的な演劇やコンサートを行うことのできる空間的な広がりが身近に存在するから祝祭が可能になるのであり、祝祭を成り立たせる場所や空間に祝祭の予兆、つまり祝祭性が宿るのだった。
都市空間や計画手法の余地や余白を紡ぐようにして行われたフローニンゲンの祝祭は、それらのかけがえのなさをあらためて私に気づかせてくれた。

この余地や余白というのはコールハースのヴォイドの戦略にもつながるものだろう。もちろん空疎な○○広場をつくればよいわけではないだろうし、現代における祝祭とは、単純なお祭り騒ぎではないだろう(そういったものはすでに都市に充満している)。

REにおけるインスタレーションやパフォーマンスと平行して、建築を設計するということを、「インスタレーションを誘起する建築的な地形をつくることだ」と考えているが、これは言い換えれば、「現代的な祝祭性をもつ余白をデザインすること」ということもできるだろう。