アカシヤの大連

現在合同課題を行っている大連を描いた代表的な小説ということで、清岡卓行の「アカシヤの大連」を読む。Amazonの中古で1円で購入。

かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったに違いない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。

冒頭の文章。

東京から下関までの満員の列車の中で、車内の通路に新聞紙を敷いて寝ころんだ(中略)
大阪商船の<うすいり丸>は、神戸を出て、門司に寄り、今は黄海の夕ぐれを走っている。夏休みの始まり。(中略)
列車は、大連駅のプラットフォームに滑り込んで行く。待ち焦がれていたなんという喜び。彼はそのとき、すれちがいざまに大連駅を出て行く列車を眺め、それに乗っている人々にふしぎな驚きを覚える。ーーー旅の終わりだ。

東京から列車で下関、門司へ。船で門司から韓国へ。そこから列車で大連へ、というルートで移動しているようです。

大連の五月は、彼にとって五年ぶりのものであったが、こんなに素晴らしいものであったのかと、幼年時代や少年時代には意識しなかったその美しさに、彼はほとんど驚いていた。とりわけ、南山麓と呼ばれている住宅街一帯の雰囲気は、彼にとって、そのままで夢想に満ちているような現実であった。

このあたりは先日歩いてみました。

大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた。

苦力(クーリー)。自分には出来そうもありません。今回の課題の対象地であるNo.15倉庫のあたりでも無数の苦力たちが働いていたようです。

そのときの大連は、自由港花やかなりし頃の昔に比べれば、戦争によってやはり相当さびれてはいたが、同じ時期の日本の内地の都会に比べれば、まだまだずいぶん恵まれていた。(中略)
大連という都会の運命が、歴史的に見て、ふしぎに平和に恵まれたものであるということを、彼はずっと後になってから知るのであるが

終戦から一週間も過ぎた頃、ソ連軍が戦車やトラックとともに大連に進駐してきた。彼らは、自動小銃を肩にして、威勢のいい軍歌をうたって街の中を行進した。市民は即製のソ連旗を振って迎えた。平和な風景であった。
それは彼に、森鴎外が描いていた日露戦争のときの日本軍による、大連の無血占領を思い出させた。(中略)どちらの場合にも砲火が交えられなかったことを、彼はやはり大連の町に相応しいことだと楽しく思った。

開港100年程の新しい都市であること、ロシアや日本の建築家らによって理想都市として建設されたこと、海と山に囲まれた豊かな地形を持っていること、厳しい戦災に晒されていないこと、そういったことが大連の若々しさを支えているような気がしました。