ナマからの逃避の時代のディズニーランド

「二次元の女と三次元の女、見つめたいのはどっち? 」

 ヌードクロッキーのエピソードを、作家であり非常勤講師でもある大野左紀子さんのブログで読んだ。かいつまむとこんな内容である。

 ある日のデザイン専門学校での授業。1年生必修のヌードクロッキーがデッサンのテーマだ。女性のモデルさんが裸でポーズを取った。すると、しばらくして「気分が悪い」と退室する学生が何人も出たという。どうしてなのか? 緊張感からだろうか?

 教官によるとそれだけではないという。アニメコースに入学する学生は、毎日のように女の子の絵を描いている。ヌードもたくさん描く。だからヌードに緊張したというだけでは説明がつかない。

 教官は教えてくれた。アニメ作家志望の彼らには“理想的な女の子”が頭にインプットされている。画面からはみ出すほど長い脚や、ほっそりとした腰の女体。ところがナマの女体はそれとは違う。(鍛えているとはいえ)モデルには脂肪もあれば、シワもあるし、毛もある。三次元のモデルの肉体には、二次元アニメでは省かれがちなそういった“ノイズ”が過剰にある。そのため、ナマの肉体と理想的な女の子とのギャップに耐えきれず、気分を悪くして退室するというのだ。

 そしてそればかりか、目の前の裸体とはまるで異なる“アニメの女の子”を、うつむいてスケッチブックに描く学生もいたという。

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0902/12/news017.html

僕自身はアニメ雑誌などが創刊されたころに思春期を迎えたが、ガンダムとかはともかく、今で言う「萌え」みたいな興味はまったくもてなかった人間なので、この記事のようなことになっているとしたら(もちろん一部でしょうが)、驚きとしかいいようがない。

このあたりの話も興味深かったのだけれど、このくだりが面白いとおもった。

デジタル産業やオタク市場、マンガだけではない。家事ロボットやセルフレジのような機械化にも、飲食店の個食ブースも非婚現象にもその匂いを嗅ぎ取れる。ブログの炎上も、コールセンターへの言葉の暴力も、ナマだったらとてもできない。今、ディズニーランドが盛り上がるのは、近場でお手軽だからだけでなく、あそこでは非ナマ(非日常空間)とナマっぽいサービス(キャスト)がうまく混合しているからでもある。

 ネット内の世界観だった“ナマからの逃避”が実生活にあふれてきた。ナマというノイズへの恐怖心を和らげる道具やビジネスが増えてきた。もはや「バーチャルな体験は不健康で、ナマの体験こそ素晴らしい」と単純化できない。どちらも私たちの生活リズムや消費心理に深く刻み込まれている。

「ディズニーランド」はテーマパークであり、偽りの体験である、というのが都市論での定説だろう。
しかし、ここでは現実社会に非現実的な要素が色濃くなった結果、ディズニーランドにはまだナマな人間であるキャストが介在しているだけ、程よくナマで非ナマなな程よい空間として採り上げられている。


6年ほど前に大分県蒲江町のワークショップで聞いた鈴木博之先生のレクチャーを思い出した。

「コンビニ 言語を必要としない空間」
「数字だけ読めれば無言でコミュニケーションなしで成立する」
「普遍的な建築 言葉がいらない建築」
「ヴィクトル=ユーゴー ノートルダム あれ(本)がこれ(寺院)を滅ぼす」
「現代における あれ と これ は何か」
「情報になりきれない人間」
「場所の限界のほうが可能性になる」
「高度機能性から複合文化性へ」
(2003年8月28日にとったノートから)