減風景/百人町

備忘録として。石川初(当初アップ時に誤字がありました。失礼いたしました)さんのブログより。

・「都市」は様々に定義し得るが、「都市的であること」とは、人間の社会的諸活動のために有用であると見なされる何らかの機能をもってその土地が意味付けられてあることである、と差し当たって言うことができるだろう。その意味で、多摩ニュータウンの南端部はまさに「非・都市」であった。都市ではない場所は必ずしも快適な癒しの空間ではない。

ランドスケープアーキテクチュアは、都市を前提とし、肯定する立場である。この職能がそもそも「都市問題」を解決する手法・思想として近代に登場したことを考えればそれは自明である。ことにランドスケープの「デザイン」は主に、都市にあってどのように「都市的でない場所」を構想し、確保するかという実践を重ねてきた。(中略)結局それは「比較的都市っぽくない場所」をデザインすることで、いわばサブシステムとして都市を(逆説的に)正当化することなのである。

・都市活動の絶対量が減少し、都市が本当に物体的に縮小するとすると、それはいわば「真に非・都市的」な、サブシステムとしてすら必要とされない土地の出現と拡大を意味するからである。「緑の思考停止」の先にありうる光景は、私たちが多摩ニュータウンの南端でその一端を目撃したような、「意味の欠落」ではないだろうか。

http://fieldsmith.net/bslog/archives/2007/05/post_480.html

石川さんのブログは愛読させていただいています。


人口減によって東京のような都市の中にも空き家や空き地が出来て、虫食い状に空地が出来る、というストーリーは学生の課題の設定でもよく出てきますが、本当に面白いものはなかなかない。

話の前提は違いますが、実際にある例として都市の不燃化の為に計画的にこのような虫食い上の空地を作り出した百人町のようなものもあります。

百人町にたくさん現れた、結果として「公園に隣接した住宅」になってしまった住宅のいたましさは、どうしたものでしょう。「公園のような公共の場に面して建つ住宅」の型を開発できていないことが問題のように思いました。