su

今日は夕方から六本木のP-HOUSEでパフォーマンス「su」を見に行く。

http://www.dance-media.com/danceandmedia/israel.htm


REでもつながりの深いdance and media japanの主催。 イスラエルを代表するダンス・カンパニー「バトシェバ舞踊団」の音楽、振付、ダンサー、ドラマトゥルク、そしてダンス講師など、マルチな才能を持つオハッド・フィショフと、メディアパフォーマンスユニットnestの主宰・石山雄三とのダンス・コラボレーションワーク。


さらにREでもサウンドデザインを中心に活躍してくれている酒井聡さんが第三のパフォーマーであるキュービックロボット?で参加。


ネタバレになるのであんまり書きませんが、二人の生身の男性と、マシーンのからみ。ダンサーがある種自分の体を抽象化しようと必死になっているのに対して、もともと「そこにただある」ようなモノ。その対比が興味深い。


最近、いまさらながら、REで取り組んでいるパフォーマンスは、「いまこの空間」で行われているパフォーマンス、なんだなと思う。例えば別のどこかの時代のどこかの国のどこかの部屋をその場が表象している、というようなものはない。いまこの空間で、ひとびとが見つめていて、その周囲の状況、ダンサーの身体や光や映像や音で作られている環境全体を体験してもらう、というようなものだ。


suのダンスは、六本木のビルの地下の真っ白なギャラリーで行われる。ダンスエリアを囲むように客席がしつらえられている。ダンサーも観客も渾然となっているし、照明もギャラリー備え付けのもので、いわゆる舞台らしい演出はされていない。ダンスも非常に近いところで行われるので、心理的にも物理的にも距離がとれない。ある種散文的というか、散漫な環境でダンスをみる訳だが、ダンサーと観客、あるいはダンスを通して描かれている世界とこのギャラリーという空間はどういう風にとらえられているのだろうかと思った。


ダンサーは手を伸ばせば届きそうな場所にいるし、衣装も普段着に近いものだ。非常に具体的な存在(その場にいる存在)のようにも思える。でも決して観客とは目を合わせない。そこに観客がいて、じっと見つめていることはダンサーには届いていないかのようだ。そうすることで「オハッド・フィショフ」と「石山雄三」という二人の人物はある種の抽象化を果たして、「なにかもっと遠くにあるもの」を描こうとしているのだろうか。


会場のあるc-MA3というビルはテレデザインがリノベーションしたビル。天井のしましまはこういうモノだったのか、とみる。


明日14日も公演あるようなので、ぜひ見に行ってみてください。