寝ながらTVをみていた

木曜の夜から体調を崩して、金曜、土曜、日曜の午前中まで寝て過ごした。


その間中、例の構造計算書の偽造の問題に関するTVや新聞を読んでいた。


もちろん、論外の行為だが、そういったことも結構行われているのかもしれないと思った。


今、ウチ事務所ではプロデュースを担当する某不動産デベロッパーと一緒に集合住宅のプロポーザルを某外資系生命保険会社に対してしている。先日クライアントである生命保険会社からレンタブル比のさらなる上昇と、施工単価の低減を求められ、プロデュース担当者と、ワレワレ、そして構造設計者で打ち合わせをした。構造に関するコストダウンは効き目が大きいので、いろいろと話し合ったが、現在計上されているコストでも十分低目の値で、これ以上減額すると構造上問題が発生するということになった。結局、レンタブル比を大幅に上昇させる方法がみつかったので、施工単価は下げず、それを補うようにレンタブル比をあげるということで提案してみようということになった。


そういう話し合いをしたのが水曜日の夜。そして例のニュースが報じられたのが木曜日の夜。


我々の打ち合わせでは、幸いにして?施工単価はこれ以上下げない、という判断ができたのだが(さすがに、じゃあ、鉄筋を減らしましょう、という話し合いはないと思うけど)、なんとか現場であと○パーセント構造コストを減らす努力をしましょう、くらいの結論は十分にありえたと思う。そういった判断が設計の現場だけに限らず、現場での無理につながることは十分にあり得ると思った。


なぜこういうことが生じるかを寝ながら考えていたのだが、月並みだが「商品」としての建築の行き着く、自然な?結末のような気がした。もちろん、デベロッパーによる開発は昔から行われていた訳だし、零細な賃貸アパートも商品としての建築といえる。しかし、最近の不動産の証券化のような利回りで判断されるような物件の増加はそれを加速しているような気がする。


我々がいま取り組んでいるような案件については、コストや利回りがクライアントの持っている基準値に達しなければ、プロジェクト自体が消滅してしまう(クライアントは土地を売却して、さっさと別のプロジェクトにとりかかるだけ)。その基準値は必ずしもその敷地固有の条件や建築の計画をふまえたものにはなっていないだろう。土地や建物に思いがあって始まるプロジェクトではないので、プロジェクトが消え去ることにはなんの躊躇もないだろう。だけど、ウチのような零細な事務所にとって、集合住宅のプロジェクトがひとつあるかどうかは事務所の浮沈にかかわる(残念ながら)。例の偽造をおこした設計事務所の置かれた立場も近いのではないかと思った。


数字合わせの開発企画には、数字合わせの設計。そういう結論なのだろうか。


(別に例の設計事務所に同情しようということではありません。)