視点の往復運動

昨日は東大の卒業設計の学内の講評会が行われた。辰野賞受賞作をはじめ11作品を講評する。

展示の際にも感じたが、学生たちの取り組みにはある種の空虚さというか、あきらめを感じた。
これは一所懸命学び、真剣に考えている学生ほど、社会が向かっていく変化の流れの強さを感じ、それに抗うことの虚しさを思うからだろうか。
取り組むことの困難さそのものを表現したもの、それは横において遊戯的に展開するもの、個人的な思いに沈潜していくもの。

おそらく歴史的な視点に立てば、社会の流れは個人には、ましてや建築には変えられないのかもしれない。しかし、大きな流れはそうであっても、社会は一直線には進まない。時にぶれたり、逆行したり、停滞したりする。その小さな揺らぎに丁寧に対応していくことが、デザイナーには大切なことだろうし、そいった試みの中から、少しでも好ましいと信ずる方向に社会をむける努力をすることが、時として大きな変化を社会にもたらすのではないか。

大きな歴史認識は必須だが、そこからはものは作れないと思う。巨視的な視点と微視的な視点の往復運動にこそ、可能性はあるのではないか。