こども(と、おや)の城

昨日はチバさん出題の設計課題の中間の講評会に出席。課題は二子玉川の大きな敷地に「こどもの城」を計画するというもの。こどもの城は、子供たちや親が安心して遊び、学ぶための空間といったらいいだろうか。

学生たちの案には、大きくは公園のような広々とした場所に活動のきっかけとなるような地形や壁のような要素を提案するタイプと、都市のようなものを提案するタイプ(実際にその中で人々が生活するものもあった)、その複合タイプ、があったように思う。つまりは、自分が子供時代に遊んだような空間を何らかの形で、あるいは極端なかたちで再現するようなものだといえるだろうか。

しかし、ここで問題になるのは、なぜ「こどもの城」のような「施設」が社会的にも望まれ、作られようとしているかだろう。本来街角や裏山で出来るはずの遊びを、なぜ出来ないか。これは空き地や原っぱが減ったというような空間的な問題だけではないはずだ。子供たちはいまでも十分(ちょっと経験をすれば)いまの町の空間の中でも逞しく遊べるはずだと思う。

むしろ子供たちの遊ぶ能力や経験の問題ではなく、親たちがそのような状況に耐えられないことのあるように思う。かけがをするかもしれない。あるいは誰かにけがを追わせてしまうかもしれない。交通事故のような可能性もあるし、誘拐がおこるかもしれない。そのような不安に耐えられないことが、このような施設が必要とされる根本的な理由になっていると思う。これは五十嵐太郎さんが指摘する過防備都市に述べているような社会状況が背後にあるだろう。


これへのひとつの対応は、なんらかの形で身分を証明された人々だけが集まれる「セキュリティ・ゾーン」を設定し、そのなかで安全に計画された「自然」や「社会」や「都市」を疑似体験するというような方向性だろう。実際にはまだ訪れていないのではっきりとはいえないが、メディアで見聞きする「キッザニア」のありようは、こういった方向性を洗練させたもののひとつの現れだろう。擬似的な都市空間を提案しようと言うひとは、キッザニアをどのように評価するか、自分なりの意見をもつべきだろう。

一方で、このような「安全・安心」な施設に、一ユーザーとして親近感を感じると同時に、これでいいのだろうかという疑問が常につきまとうのも事実。去勢された自然、あるいは漂白された都市として場所を作ることしか出来ないのだろうか。そういったことを考えていると、なかなか課題の案について、クリアでポジティブなアドバイスを出来なかった。


しかし、冷静に考えても、この疑問に対して有効な返答は自分の中には見つけられなかった。これは過防備都市に対して、疑問を提示することはできても、決定的な対案を提示できないと同じように、根本的には解決できない矛盾なのかもしれない。

出来ることとしては、その空間の異様さに気づきながら、精一杯のラインで現実の社会を導き入れることだろうか。そういった意味で、子供がどのような空間を体験できるかという視点だけではなく、常に親をはじめとする大人(時には不埒な意図をもったものもいる)との関係で空間をデザインする必要があるように思った。それはスケール・レスのダイアグラムではなく、寸法が重要な鍵を握っているように思う。ひと一人の身体的なスケールだけではなく、人々と人々の関係をデザインできるスケール。そういった中間的なスケールの把握と、それを大きな敷地の中でどのような密度でデザインできるかがテーマとなるのではないかと思う。