建築で考える/組織のデザイン

(長文です。すいません)


先日木曜日に東京大学建築学科の卒業設計の結果が発表さました。
みんなのがんばりも良く分かったし、相対的なレベルも低くはなかったと思いましたが、一方で釈然としない気持ちが残っていました。


ずっともやもやと考えていましたが、発表の夜に研究室の学生たちと夜更けまで話したり、その後も考えたことをもとに、来年以降への建設的なアドバイスを見つけたいと思って、メモを残します。


卒業設計に限らず、なにか建築的なプロジェクトを立ち上げてプレゼンテーションする、あるはそれを現実のものとしてくときに、いくつかの側面があると思います。


一つには「プログラム」の重要さということがあります。これは極端に簡単にいうと「どこに、どういう機能をもった建物を提案するか」ということでしょうか。その立地がなにか社会的に重要な場所であったり、そこにショッキングな用途を持ってきたりすることがそのまま社会に向けてのメッセージになる(批評性を持つ)という場合もありますし、逆にそのプログラムが社会のなかで十分な妥当性を持っているか、という点も議論になります。
(例えば、「防衛庁(つまり軍)跡地に、巨大なミサイル型の集合墓地を計画する」ということはそのこと自体が一つのメッセージでしょうし、逆にリアルな提案をしてく場合は、そういった建物が必要とされる社会的な二−ズ、投資がされうるか、と行った面も議論になります。)


東大生は一般にこの「プログラム」というもので批評性を持たせようとしたり、あるいはリアリティを追求することが得意で、そこに時間をかけ過ぎる傾向がありますが、重要なポイントであることは間違いないでしょう。


一方で卒業設計が単なる企画書でなく、モノとしての建築を考えるものである以上、プログラムだけでなく、いわゆるデザイン、構造、設備といった多様な側面を総合的に設計に組み込んでいくことが求められます。これは当然のことでもありますが、建築を学びはじめたばかりの学生にはなかなか高度な要求でもあります。しかし、こういったことに取り組み、一定の成果をあげている学生が何人もいたことは心強いと思いました。


今年の卒業設計ではこのモノとしての建築の総合性に取り組もうと挑戦し、それを充実したプレゼンテーションで提示できた人たちがたくさんいました。


が、しかし非常に密度の濃い、プレゼンテーションボードや大きな模型の山を目にし、圧倒されながらもそれを読み込んでいくうちに、非常に強いいらだちを覚え、自分でも当惑しました。


そのいらだちの原因と、では、どうしたらよいのかということをここ一週間ぐらい考えていたように思います。


■建築で考えるということ/アイデアを深堀すること


一つには、「建築で考える」ということをほとんどの作品がしていないと感じたからだと思います。


例えば、プログラムは歴史、文化といった社会的なコンテクストに則ったものですので、言葉で思考することができます(必要です)。「これは○○という歴史をもった場所だから、ここに○○を提案することは○○という意味を持つ」というようなことです。ストーリーと言ってもいいかもしれません。これはこれでもちろん必要。


しかし、「言葉」で考えるのではなく、「建築」で考えるということは考えられないのでしょうか。具体的には、ある建築的な「アイデア」をもっと膨らませ、展開し、その限界を突き止めようとする、ということでしょうか。


例えばクボさんの天井のデザインだけで空間を性格付けていこうというアイデアや、タマキさんの折れ曲がった壁の集合のなかに穴を穿っていくことで空間を作っていこうというアイデアには非常に可能性があったように思います。しかし、時間の問題なのか、自分がきめたルールに縛られすぎたのか、その可能性が十分に追求されておらず、歯がゆい思いがしました。


卒業設計が一種のコンペである以上、沢山のアイデアの寄せ集めになることは好ましくない。できるだけシンプルな一つか二つのアイデアでできていることはメッセージとしても強くなります。しかし、「一つのアイデアで、可能な限りそのアイデアに忠実なデザインをする」ということが、「最初に思いついたアイデアですべてをやってしまう。それを様々な技術的な検討で覆い尽くす」というアプローチになってしまったものが多かったように思います。


むしろやってほしかったのは「思いついた一つのアイデアを、時に逸脱してみながら、最終的にその限界を探る」というようなアプローチではないかと思います。


■思考を阻害しない組織/スタディ方法/プレゼンテーション


学生たちのエネルギーや努力が足りなかったとは思いませんから、なぜそのようなアイデアを深めていくアプローチができなかったのか。


一つにはプレゼンテーションのスタイルと、それを支えるためのプレゼンテーションチームの組織の仕方にあるように思いました。自分の卒業設計を思い出すのがためらわれるくらい、最近のプレゼンテーションの質と物量は際立ってレベルが上がっているように思います。稚拙なCGや模型も散見されますが、上位の学生のプレゼンテーションは、そのまま建築のギャラリーで展示しても恥ずかしくないレベルだと思います。


先輩たちの手伝いをしながら、方法を学び、それを翌年さらに洗練させて展開してく。プレゼンテーションのための組織論が出来上がり、方法論が確立されているようにすら感じます。東大生らしい、カイゼンの力が働いているように思いました。


しかし、このことがアイデアを展開させ、さらに思考を深めていくことに枷になっているのではないかと感じます。
「何日くらいからは、これを作ってもらわなければならないから、まずいと思っていてもここはこのままで行く」
「せっかく作ってくれた模型だから、直してくれとはいいにくい」
といった状況が生まれているようです。


何度か一流の建築家と恊働したした経験から強く思ったのは、「彼らは決して考えることを止めない」ということ。コンペの提出の前日でも、大きく変わる。これはスタッフや恊働者としてはとっても困る。困るけどがんばる、という関係があります。


学生たちのチームは絶対的な主従関係のあるボス/スタッフという関係では無い以上、これをまねするのは難しいでしょう。でも、結果としてそのことが考える時間を奪ってしまうとしたら本末転倒ではないか。


どのようなスタディを積み重ね、どのようなプレゼンテーションのための組織を作り、成果物をどのようなものにするか、このこと自体が重要なデザインの対象になると思います。


参考になるかどうか分かりませんが、助手もしているヒダカさんの卒業設計を思い出しました。
彼のスタディとプレゼンテーションの技法は圧倒的に面白かった。
厚紙であるゴールデンボードをプレゼンテーションの最終レイアウトの状態で、壁に貼り出し、その上に直接万年筆やペンでスケッチをしていく、時にトレーシングペーパーを貼付ける。そうしてアイデアが変化していくと、ボードの上に直接ジェッソを塗って白く消し、その上にまた線を描いていく。その繰り返し。図面がだんだん厚みを増し、ざらつきを持ってくる。思考の重なりがそのままプレゼンテーションに現れる。
彼もヘルパーの後輩たちが沢山いたのですが、一番大事な部分は直前まで、気の済むまで手を入れられる方法をとる。さすがだなー、と思いました(ぼくはずっと平凡な方法をとっていましたから)。


先に述べた「建築で考える」「組織そのものをデザインする」ということは自分自身、常に肝に銘じていることです。自分自身、実行できているか、いつも胃の痛い思いをしていることでもあります。


強い苛立ちを感じたのも、学生だから、というより、同じクリエイターとしてこれでいいのか、と思ったからだと思います。


この文章を誰が読んでくれているかは分かりませんが、来年度になるとまた忘れてしまいそうだったので、メモを取りました。